Hashimoto City Tourism Association

大畑才蔵

大畑 才蔵(おおはた さいぞう)

1642~1720年 学文路出身


功績:
紀州流治水工法
小田井用水

暴れん坊の「紀の川」を諌めた「治水の神様」



江戸時代、紀州藩は、徳川御三家の一つであり、今の和歌山県の大部分と三重県のほぼ南半分を支配する55万石の大藩でした。


しかし、寛永の大飢饉(1642~)などにより、藩の財政が苦しくなり、徳川光貞が2代藩主に就いた頃には、藩の運営は困難を極めました。


そこで光貞は、財政立て直しのために農村で活躍している農民の知恵を活用して米の増収を図ろうと、元禄四年(1691)に農政の改革に取りかかりました。そうしたなかで、光貞の目にとまったのが、学文路村の庄屋であった大畑才蔵でした。


才蔵はすぐれた測量技術や土木工法を修得しており、それを買われて藩の下級役人に抜擢されました。


才蔵が藩内をくまなく調査したところ、藩内の生産性の悪い土地の多くが、水不足など水利に問題があり、用水路を建設し十分な灌漑を行えば、米の生産量が大きく増やせることに気づきました。


才蔵はその調査結果をまとめ、同じく農民出身の井沢弥惣兵衛と共に、米の増産のための様々な方策を練りました。そこで考え出されたものの一つが「紀州流(イラスト)」といわれる治水土木工法です。

これは、大雨が降ればすぐに洪水になるような低湿地を流れる暴れ川の蛇行を修正し、流れを挟むように連続した堤防を築くものです。こうすることで増水時の雨水の流路を確保し、洪水の発生を大きく抑えることが出来ます。


さらに堤防によって残った土地(後背湿地)は、養分が豊富で、すぐに新田として開発できたため、効果的に米の増産を図ることが出来ました。


今では全国どこででも見られるごく普通の堤防ですが、郷土の先人である井沢・大畑2人の発案した工法だと考えると、感慨深く誇りに思います。


また、治水工事の計画実施に当っても、才蔵は、現在に通じる合理的な方法を生み出しました。まず、全体の工事区間をいくつかの丁場(割り当て区間)に分けて、「水盛器(みずもりき)」と呼ばれた測量器で正確な測定をしました。そしてこの結果から、丁場ごとに必要な資材や地面を掘ったり盛り上げたりする土の量、工事に必要な人の数を細かく計算して、計画を作り、事業の経費を見積りました。
この緻密な計画は、工事の無駄をなくし、また複数の工区で同時着工できたため、工期を短縮すると共に全体の経費を抑えることが出来ました。


才蔵は、優れた実施計画をもとに様々な土木事業に取り組み、三重県の雲出(くもず)川の用水路建設を皮切りに、現紀の川市の藤崎井(ふじさきい)等、藩内各地の主だった増収計画を次々と実現していきます。そして、才蔵が最後に取り掛かったのは、最も難工事であった小田井(おだい)の掘削でした。


小田井の計画は橋本市内の小田から岩出市の根来川まで全長32.5キロにも及ぶ上、地質的にも河岸段丘が出入りした複雑なところであり、難工事の連続でした。しかし才蔵は、それ迄に培ってきた経験と知恵をいかして、宝永五年(1708)に第一期工事を完成させました。


才蔵は、享保五年(1720)に、この世を去りますが、藩主であった吉宗が、8代将軍になり、井沢が勘定奉行の役人に抜擢されると、「紀州流」の工法は全国に普及していきました。吉宗が享保の改革を実施し、「米将軍」と呼ばれたのは有名ですが、その改革の偉業は、才蔵の功績が無ければ成し得なかったと言っても過言ではないでしょう。

才蔵は、農村経営についても優れた考えを持ち、彼の著書である「地方聞書(じかたのききがき)」には、年貢を取り立てるときの役人の心がまえや農民が耕作をするために必要な知識が書かれています。特に農作物のつくり方が具体的で、米などの収量を上げるための工夫と一緒に、生産に必要な費用の見積りも書かれています。これは現在でも通用する農業経営の方法といえます。


一生を治水と農民のために尽くした才蔵の墓は地元学文路地区にあり、今も彼が一生を注いだ紀の川の流れを見守っています。なお、この墓石は和歌山県の重要文化財に指定されています。

才蔵の測量器具等(郷土資料館に展示)

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