Hashimoto City Tourism Association

応其上人

木喰応其-もくじきおうご-(興山応其上人)

1536~1608年
安土桃山時代の真言宗の僧

-木喰応其が、紀の川に橋を架け、町を開いたことに源を発す・・・-
これが「わがまち橋本」の起源として語り継がれている内容である。







では、そのわが町を創った「応其上人」とはどのような人物であるのだろうか。 応其はいわば橋本市の初代市長といってもよい人物であり、市内にも、応其が居宅として使用した「応其寺」、応其の築いたと伝わる「引の池」「岩倉池」「平谷池」など幾つもの灌漑用池が残る。また、「高野口町応其」という地名があったり、「応其小学校」など、彼の名は、市民の生活に溶け込んでいる。ところが、残念なことに橋本には我々が木喰応其と言う人物を理解するための資料はあまり残されていない。詳しい人でも金剛峰寺(当寺は青巌寺と言った)を立てた事を知るぐらいである。


だが、「天下人豊臣秀吉」との関わりから彼を見ると、応其上人が時代を左右する人物であった事が見えてくる。あまり知られていないが、応其は奈良の大仏より大きな「京大仏」をつくったり、秀吉の名代として島津に和平交渉に赴いたり、土木好きと言われる秀吉の土木工事の内、97箇所が応其主導の下で行われている。


また、連歌の名手としても名をはせ、「無言抄」という連歌の作法書も残している。
文禄3年(1594)に秀吉が、徳川家康・前田利家ら名だたる大名を高野に招き連歌会を行っているが、このときの事を記した「文禄三年連歌懐紙」には秀吉の「年を経は若木も花や高野山 松」の発句につづき「かすむかたへのひろき墻うち興山」と応其が続けている。この後に、前田利家・徳川家康らが続くのであるから、応其の扱いの高さは言うまでもないだろう。
←応其寺

応其が、歴史の舞台に立つのは、天正13年(1585)、秀吉の紀州攻めである。精強な鉄砲部隊を編成する根来衆・雑賀衆が攻略され、次は高野と言う時に、秀吉の居る粉河寺へ和議に赴いたのが、応其その人である。応其は元を正せば、近江の武士であり姉川の戦いにも参加し、それを原因に出家したとも言われている。当時応其は、高野山の主導者ではなく、客僧というどの派閥にも属さない立場であった。その応其が交渉役に選ばれたのには、連歌を通じ秀吉の側近、又は秀吉本人と旧知であったからだという説もあるが憶測の域を出ない。しかし、旭日の勢いの秀吉を相手に、誠意を尽くして説得を続けた応其に深い感銘を受けたのは事実であり、その後深い親交を続けることとなる。
応其は、和平交渉の際に僧兵の武装解除を約束するとともに(最初の刀狩と言われる。)高野の領地をすべて献上し、逆に秀吉は2万1000石の寺領を高野山に認めている。このうち、半端な1000石は応其個人に与えられたものであり、いわば秀吉からの俸禄である。この地が本市の中心地になった「橋本」で、天正15年(1587)に応其は里にあった荒れ寺を再建し、定住することとなった。(応其屋敷とも呼ばれる。現在の応其寺)


この後、応其は秀吉によって高野山を統べる人物として指名されることとなる。秀吉の生母・大政所の供養として高野山に青巌寺(後に金剛峰寺と改名)を建立し、その他諸堂を修理、荒れていた高野山を天下の菩提所として再整備を行った。土木好きと称される秀吉の土木事業のうち約百箇所の道路や橋、用水などの整備修復を行っている。高野の統括の傍ら、全国で活動する応其にとって、橋本と言う交通の要所に町を開き、居所としたのは必然的で有ったと考えられる。


橋本は、秀吉を後ろ盾にした応其の安定した統治によって急激に発展することとなる。応其は、大和・紀伊・和泉など領地であった弟の豊臣秀長と親交が深く、その時期に様々な寺や宝物の寄進のほかに、大きな特権を得ている。
その秀長が橋本の町に認めた特権が「永代諸役免除」(永久免税)と、「塩市の開設」である。 朝取れた生魚が内陸部のスーパーで買える今日では「塩」と言われても調味料の一つでしかなく、それほど重要に思えないが、「塩」は食だけでなく工業面でも不可欠な交易品であり、現代の石油に匹敵するような物で、為政者が経済基盤とするものの象徴でもあった。


この地で塩市開設を認められるということは、大産地(和歌浦)から、京・大和・大坂に運ぶ南ルートを独占する権利を与えられたことを意味し、豊臣政権から与えられた権利が決して低いものではないことが分かる。
また、軍略という面で考えると、紀の川に橋を架けると言う行為も大きな意味を持つことが分かる。東海道の難所「大井川」は、浅い川であるが、軍略・防衛の為にわざと橋が架けられなかったのは有名な話である。橋の無い紀の川は、何にも勝る天然の堀となる。逆に橋が架かっている状態では、反乱などが有った場合どんな大軍でもやすやすと進軍出来てしまう。そこに橋を架けるのは、橋本以南を秀吉が完全に統治できていると言うことと、応其が全幅の信頼を得ていたからこそ出来たことなのである。


この橋は、大水で流されてしまいその後、現代になるまで橋が架かることは無く、実際に秀吉がこの橋を渡ったかを伝える資料も残っていない。 当時の紀の川は、勿論ダムが無かったので、今とは比べようの無いほど水量があったため、大きな何十石舟が行き来していた。水量が多く、往来の激しい所に橋を架けるのは、現在の技術をもってしても容易ではない。其れをやってのけたのは、応其の優れた技術力と人心をつかみ統率する力の高さに他ならない。

最後に応其の外交僧としての動きを検証してみたい。  鎌倉時代から続く薩摩藩の歴史を記した「薩藩旧記雑録」には応其が、島津との和平に際し大きな役割を担っていたことがわかる。


九州征伐は、島津の九州統一を目前に、大友宗麟が秀吉に助けを求めたことから始まる。 天正13年(1595)、秀吉は降伏勧告を意味する惣無事令を発令、反目した島津に対し臣下の大名を出陣させ討伐を命じる。しかしながら精強な歩兵部隊を組織する島津の攻勢は強く、十河存保・長宗我部信親ら多くの戦死者を出すとともに、撃退されてしまう。


天正15年(1597)3月には、応其は一色昭秀と共に薩摩に最終の和睦交渉に赴いたが、失敗し秀吉が自ら20万を越える大軍を率い九州侵攻を開始する。4月には、豊臣秀長を大将とする8万の別働隊が、四国から裏をかいて宮崎に上陸、大分から引き返した島津軍と根白坂で交戦、勝利しこの戦の大勢が決せられることとなる。


この時点で、応其は一色昭秀と再度講和に向かったが、鎌倉時代から続く守護大名が、農民出身の秀吉に降伏することを潔しとはしない武将は徹底抗戦を訴え、その和平交渉は困難を極めた。事実、大名である島津義久が応其の進めにより降伏した後も、弟の島津義弘は抗戦を続けたが島津本体が降伏した後では抵抗も無意味で、最終的には無条件降伏を行っている。
応其の働きは具体的な戦功として現れるものではないが、精強な島津が最終まで徹底抗戦すれば、戦役の長期化は勿論、より多くの戦死者を出したと推測され、和平交渉の中で応其の役割の重さをうかがい知ることが出来る。
秀吉がもっとも信頼していた弟の秀長が死んだのは、秀吉が天下統一を達成した翌年の2月。もしここの九州征伐が長引いていたら、天下統一は適わなかったかもしれない。
この後、応其は豊臣氏に仕えたが、慶長7年(1602)に地震で倒壊した京大仏を再建中に出火、大仏殿が炎上してしまうこととなる。応其はこの責任を取り近江の飯道山に隠遁、歴史の表舞台から姿を消し、波乱の人生に幕を下ろす。


この後、この方広寺にある大梵鐘の「国家安康」文字が問題となり、結果豊臣家滅亡の原因となってしまう。 応其は隠居した飯道山から娘の於駒にあてて次のような手紙を送っている。


「万事難しいことは、嫌である。菊千代(孫)のこと、安らかに育てられたい旨。」


太閤秀吉という巨大な「渦」によってその人生を大きく変えられた応其が求めた「安寧の地」とはどんなところだったのであろうかと、思いはせずにはいられない。

はしもとの偉人

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岡 潔(※奈良女子大学附属図書館のページに移動します)